Our Story

The Rainstick Orchestra (ザ・レインスティック・オーケストラ)は2000年に角田縛と田中直道が結成したプロジェクト。2013年に田中が逝去したため、現在は田中の遺志も受け継いだ角田のソロ・プロジェクトという体裁を取っている。

1990年代前期に田中がマンチェスター・サウンド(マッドチェスター)に影響を受け、パンク・バンドのメンバーとして活動していたころ、角田はギターとピアノに手を染めつつ、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)やDeee-Lite(ディー・ライト)を通じて音楽に対する興味を深め、また宅録のようなこともすでに始めていたという。

そして角田は高校に入ると、Deee-Lite(ディー・ライト)経由でブラック・ミュージックへの関心を強めていき、メシオ・パーカーやファンカデリックに触発されたファンク・バンドに加入する。なかでも加入したファンク・バンドのドラマーとはテイ・トウワのファンであったことから意気投合し、同時に角田の音楽的嗜好もソウル、ファンクから70年代のジャズ・フュージョン、さらには60年代のジャズにまで広がっていった。

ちょうどこのころ、角田はミュージック・マガジンなどの音楽メディアを介してドラムンベースやジャングルを知り、当時ユナイテッド・フューチャー・オーガニゼイション(United Future Organization,U.F.O.)のラファエル・セバーグがDJを務めていた青山のいまは亡きクラブ、ブルーでのドラムンベース・セッションに通いながら、プログラミングによる音楽制作にも可能性を見出すようになる。

そして角田と件のファンク・バンドのドラマーは、どちらかといえばプログラミング主導型の産物であるドラムンベースを生演奏で具現化するというコンセプトに辿り着き、スタジオで試行錯誤を繰り返していたが、1997年にRONI SIZE REPRAZENT (ロニ・サイズ=レプラゼント)が同様のコンセプトで傑作『New Forms』を発表したため、角田とドラマーによるスタジオでの試行錯誤はひとまず終焉を迎えた。

その後、角田は、独自に音楽制作を始めてはいるものの、まだ自分の作品を世に送り出していない、いわば角田と似た境遇の無名アーティストたちが集う場に出入りするようになり、彼らと共に青山のクラブ、蜂でDJとしての活動もスタートさせ、ドラムンベースやソウル、ファンクを中心にプレイしていたという。

しかしやがてこうした活動にもマンネリめいたものを感じ始めていた角田は、思いつきで1本のデモテープを当時ブレイク中だったベルリンのJAZZANOVA (ジャザノヴァ)に送る。

そして結果的にJAZZANOVA (ジャザノヴァ)関連のレーベルからのリリースには至らなかったが、角田が送ったデモをJAZZANOVA (ジャザノヴァ)がダブ・プレートでプレイするなどして高く評価していたことをメンバーのひとりから知らされる。この出来事に刺激され、以降角田は精力的に制作活動に乗り出す。

なお、JAZZANOVA (ジャザノヴァ)が高く評価した角田のデモは後に、CALM (カーム)が主宰するレーベル、Music Conception (ミュージック・コンセプション)から発表された角田の12インチ『Music Conception Presents Satellite Series Vol. 1』に「Brave New World」として収録された。

角田は2000年にレーベル、ラストラムからリリースされたコンピレーション『The Returning Sun』に「I Want You」を提供したり、先述したようにレーベル、Music Conception (ミュージック・コンセプション)から12インチ『Music Conception Presents Satellite Series Vol. 1』を発表するなどしてソロ活動を本格化させる。

さらにThe Rainstick Orchestra (ザ・レインスティック・オーケストラ)の名の下で田中との制作活動に取り組み始めたのもこのころだった。

角田と田中は、角田が青山のクラブ、蜂でDJをしていた時期にすでに顔見知りの関係になっていたが、このときまではふたりで音楽を作ろうなどとは特に考えていなかったという。

ところが、ふたりでの音作りを決意させるような出来事がこのころ起こった。  2000年のある日、角田は西麻布のアンビエント・バー/クラブ、ブレッツでのイベントにDJとして参加する予定になっており、田中にも遊びに来るように前もって声をかけていた。

そして角田はこの日のイベントでアンビエントな夜にふさわしいSteve Reich (スティーヴ・ライヒ)のミニマルな、決して踊りやすいとは言えない曲をかけたのだが、その際にひとりだけ嬉々とした表情で踊り出す者がいた。それが田中だった。

この光景に衝撃を受けた角田は田中と語り合い、互いの音楽的ビジョンが共有可能であることを再確認し、半ば運命的なものに導かれながらふたりによる共同作業が始まった。

「ぼくたちはいろいろな意味において、絵画や建築をはじめ、音楽というよりもむしろ様々な種類、ジャンルのアートに影響されてきたんだと思う」と自らを語る彼らが4年あまりの歳月を経て完成させた作品がファースト・アルバム『The Floating Glass Key in the Sky』(2004年)だった。

The Floating Glass Key in the Sky

Warp Records (ワープ・レコーズ)と双璧をなすイギリス最大のオルタナティヴなダンス・ミュージック・レーベル、Ninja Tune (ニンジャ・チューン)からリリースされた本作ではギター、ピアノ、ベース、パーカッションとシーケンサーを使用した「デリケートなシステム・ミュージック」とでも称すべきサウンドが展開されており、それはジョン・ケージやSteve Reich (スティーヴ・ライヒ)のミニマリズム、さらにはジャズやテクノのテクスチャーをも包含したものであった。

リスナー環境を必要以上に阻害しないながらも、いつの間にかリスナーの心にすっとアクセスしていく魅力に溢れた自然体のエレクトロニック・ミュージックを提示する『The Floating Glass Key in the Sky』は世界的に高く評価され、角田と田中は『Newsweek (ニューズウィーク)』日本版(2005年10月26日号)で「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれた。

『Newsweek (ニューズウィーク)』日本版

生楽器とプログラミングをシンクロさせつつ、現代音楽にも通じるポリフォニックなサウンドスケープを描き出した『The Floating Glass Key in the Sky』発表後、ふたりはセカンド・アルバムをバンド編成による生演奏のみで作り上げていこうと画策していた。そこで彼らはファースト・アルバムを総括するという意味合いも兼ねて、2005年にある曲をバンド形式で録音する。それがセカンド・アルバム『The Shape Of The Cloud』に収録されている「Anchorage」だった。

このスピーディーにスウィングするワルツ調のモーダル・ナンバーを生楽器を用いて、生演奏で表現できたことにふたりはおおむね満足していた。

The Rainstick Band

しかし「Anchorage」を完成させた時点で、彼らが当初抱いていた次のアルバムを生楽器による生演奏で作り上げようという考えはある考えに取って代わられていた。

モードやハード・バップを生演奏したときに生じるリズムのズレや揺れ、そしてこうしたズレや揺れが生ずるがゆえに結果として自然発生的に醸成されるスウィング感をあえてプログラミングで意図的、かつ必然的に表現したほうが面白いのではないかと感じたのである。

当初の彼らの思惑とは180度異なった2作目『The Shape Of The Cloud』はこのようにして生まれた。

CD Released 2015 KADOKAWA / introducing! productions

『The Shape Of The Cloud』を制作するにあたって、ふたりは、アコースティック・ジャズが放つ偶発的とも取れるスウィング感がどうやって生み出されるのかを研究するために、マイルス・デイヴィスの『Four & More』やビル・エヴァンスの『Waltz For Debby』などのモダン・ジャズの定番的名盤を教科書代わりに何度も聴き直したという。

そしてアコースティック・ジャズのスウィング感を構成するリズムや倍音の揺らめき、ズレの仕組みを解明して、打ち込みに変換し落とし込んでいった。

10年もの歳月を費やして。

この偏執的で気の遠くなるような作業の繰り返しの賜物でもある『The Shape Of The Cloud』は、引きこもり世代のクリエイターが獲得した発想の転換を糧に生み出された作品だ。だから本作を「ニート世代が考えるジャズ」と捉えるならば、こう呼んでもいいだろう。「NeeJazz (ニージャズ)」と。

と同時に、『The Shape Of The Cloud』は2013年に急逝した田中の遺志を受け継いだ墓碑銘であることも忘れてはいけない。現在、角田は早くもThe Rainstick Orchestra (ザ・レインスティック・オーケストラ)のサード・アルバムの準備に取りかかっている。

2000年に第一歩を踏み出したThe Rainstick Orchestra (ザ・レインスティック・オーケストラ)の旅路はどこまで続くのか。それは誰にも分からない。

Text : Tomoji Kitaura